Voicyそなえるらじお #708 輪中に学ぶ水害対策③…川があるのに水がない?揚水・排水のお話
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執筆者:高荷智也
おはようございます!備え・防災アドバイザー高荷智也がお送りする「死なない防災・そなえるらじお」、10月25日(水)、本日も備えて参りましょう!
輪中に学ぶ水害対策③
本日のテーマは「輪中に学ぶ水害対策3」のお話です。
- 前回に引き続き、今回は水害対策に関する意外なお話。
- 【360度動画】輪之内町「輪中」に学ぶ水害対策!1000年間の治水の歴史を巡る
輪之内町と水害対策について
YouTube撮影用に、事前にメモをしていた内容です。このメモを使って、上記動画の撮影をしてきました。
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※コメントは以下のWEBサイトから転載です
https://wajyu.jp/mania/establish/
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⑥福束揚水場
明治以降木曽三川周辺では、治水整備が進むにつれ、これまで地域としての強みであった地下水位が下がるという状況に陥り、頼りにしていた掘り抜き井戸も枯れるなど水不足に苦しむことが増えました。
結果、排水機場を整備する一方で、川から農業用水を取水する為の揚水機場も必要となり、昭和34年(1959)に初めて福束の揖斐川沿いに整備され、以降、更新されて現在に至ります。そして、治水、排水、用水といった長年の課題が解決した時、かつて水の中で営まれていた輪中の環境は変貌しており、一般的な陸地の生活と同質のものとなっていったのです。
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⑦福束排水場
輪中から堤外に排出する際、堤外の水位が高いと輪中内に水が逆流して洪水をまねくことは以前と変わりないので、揖斐川の水位が低い時には開門して排水し、水位が高い時には閉門して逆流を防ぐ逆水閘門(こうもん)を設置することになります。この閘門は明治36年(1903)に福束輪中南端の大榑川締切提に完成し、黄河の洪水を治めたという中国の伝説上の王にあやかって禹閘門(うこうもん)と名付けられました。
しかし、この施設は輪中の排水施設として必須のものではありながらも、揖斐川の水位が高い間は排水できないもので、悪水をため込む時間が長びくほど水稲が腐るなどの被害が出るという古来からの課題を抜本解決できるというものではありませんでした。その上、排水口が設置された地点の揖斐川はちょうど川の合流点で砂が堆積しやすく水位が上がりやすい地形だったため、設置から15年も経つと平常時でさえ排水に支障が発生するようになり、閘門自体も老朽化も進んでいました。そこで、大正10年(1921年)にレンガ造り(2代目)に改築、同時に揖斐川排水口付近の排水路を掘り進んで流れを良くしました。2代目禹閘門は見た目も立派で大変頑丈なものでしたが、昭和19年(1944年 )の昭和東南海地震と翌20年(1945年)の三河地震で被害を受けてしまい、昭和27年(1952)にコンクリート製閘門(3代目)に全面改築され、現在に至ります。
しかし、ここに至っても輪中の排水の課題は完全に解決したわけではありませんでした。度々の集中豪雨の発生で輪中全体の湛水量は増加傾向にあり、中でも昭和36年(1961年)6月の集中豪雨は排水機設置以来最大規模のもので、堤防が破壊されたわけでもないのに仁木地区の低地部が湖となるほどの状況でした。戦前に設置された電気排水機は揖斐川の高水時には通常の半分以下の能力しか発揮できず、排水力が不十分だったのです。そこで、昭和37年(1962年)から6年にわたり、県による湛水防除事業が行われました。
この事業によって電気排水機場では既設モーターの出力が3割程度UPされたのに加え、新しい大口径ポンプ、さらには新設電動機の倍近い出力を持つディーゼルエンジン2台が追加設置され、馬力数合計で数えて当時全国5位に入る高出力を供えた排水機場が完成したのです。また、この排水機場につながる排水路である各江川も改めて整備され、ここに、新時代の排水設備は完成して現在に至ります。
本日も、ご安全に!
ということで、本日は「輪中に学ぶ水害対策3」のお話でございました。
それでは皆さま、本日も引き続き、ご安全に!