Voicyそなえるらじお #604 日本海中部地震から40年…進歩した津波情報の伝達と受け手の意識の課題
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執筆者:高荷智也
おはようございます!備え・防災アドバイザー高荷智也がお送りする「死なない防災・そなえるらじお」、5月26日(金)、本日も備えて参りましょう!
日本海にも津波は来る・来た
本日のテーマは「日本海中部地震」のお話です。
- 本日5月26日は、日本海中部地震からちょうど40年目を迎える日です。
- 日本海に津波は来ない、という定説・思い込みを巨大な波で砕いた大地震について、本日は振り返って参ります。
日本海中部地震
- 1963年(昭和38年)5月26日、お昼前の11時59分頃、秋田県北部の都市・能代市の沖合約80kmの地点、青森の津軽海峡から秋田の男鹿半島の西側にかけての広い範囲を震源として、深さ14キロ・マグニチュード7.7・最大震度5を観測する大地震が発生しました。日本海中部地震と名付けられた震災の発生です。
- マグニチュード7.7という地震はかなり大きな地震です。過去100年で日本で観測されたマグニチュード7以上の地震は約200回ありますが、M7.7の地震は上位1割に入る大きさで、日本海側で発生した地震としては最大クラスですし、日本で発生した地震のなかでもトップクラスに大きな地震が、この日本海中部地震でした。
- しかし、この地震で観測された揺れの大きさ、最大震度は5と、地震の規模の割にはあまり大きくありませんでした。理由のひとつは震源が沖合80kmと離れた場所であったこと、もうひとつは当時はまだ震度計が設置されている場所が少なく、震源に最も近い能代市には震度計が無かったため、正確な震度が記録されなかったことが理由です。この地震が現在発生していれば、震度6弱から震度6強という数値が残されていたかもしれません。
地震の状況について
- 前回・前々回の放送で、1960年のチリ地震、そして2011年の東日本大震災では、発生の直前に、今思えば「前震」に当たる地震が発生していたことをお話しました。そしてこの前震は、日本海中部地震でも発生しています。
- 本震のM7.7が生じたのは5月26日のことですが、この地震の約2週間前、5月14日に、ほぼ同じ場所で、深さ52キロ・マグニチュード5.2・最大震度1を観測する大きめの地震が発生していました。
- 本震が生じる前半年間の間に、この地域で発生した震度1以上の地震はこれ1回だけですので、直近で地震が生じていなかった地域に、いきなりM5.2の地震が発生し、その12日後にM7.7の大きな地震が発生したということになります。
- ただ、これが前震であることは後付け、今だから言えることであり、M5クラスの地震は日本においては全くもって珍しいものではありませんので、これが前震であると事前に気づいて行動を取ることは不可能です。
- 少し大きな地震が生じたら1週間程度は注意して生活する、ということは最近よく言われますが、日本海中部地震の場合、本番の大きな地震が来たのは12日後、完全に警戒態勢も解かれた頃ですので、やはり大きな地震を予知するのは難しく、常に備えるしかないのだ、ということが分かります。
- ちなみに本震の後の余震は数多く発生し、本震直後からM4~M5クラスの地震がほぼ連続して起こり続け、本震の1時間後にはM6.1の大きな余震が、2週間後にもM6.1とM6.0の余震がたてづづけに、そして本震の約1ヶ月後、6月21日に最大の余震となるM7.1・最大震度4を観測する地震が発生し、津波も生じています。
- 大地震の前震を察知することは極めて難しいですが、大地震後の余震は必ず生じるので、しばらくは警戒をし続ける、ということがよく分かります。
津波の発生
- 日本海中部地震による被害としては、死者104名、建物の全壊が1500棟、半壊が3500棟、その他道路・橋・港などに大きな被害が生じています。これらの被害の大部分は地震の揺れではなく津波によるものでした。
- 11時59分に地震が発生し、その8分後・12時7分には青森で、9分後・12時8分には秋田県で津波の第一波を観測しています。
- 津波の最大の高さは、北海道の奥尻島で4.3m、青森県の市浦・現在の五所川原で5.8m、秋田県の八竜町(はちりゅうまち)・現在の三種町(みたねちょう)で6.6mと大きな津波が襲来しました。ちなみに、対岸となる北朝鮮や旧ソ連側でも死者を伴う津波被害が生じていたということです。
- 気象庁から津波警報が発表されたのは、地震発生から15分後、12時14分のことでした。第一波には間に合っていないのですが、津波の最大の高さを観測し始めたのは、秋田県の男鹿で12時16分、能代で12時31分のことでしたので、津波警報と同時に避難を始めていれば、海岸から離れることができた可能性はあります。
- しかし、1983年当時はまだスマホや携帯は存在せず、大津波警報を外出中の個人がリアルタイムにキャッチする仕組みはありませんでした。また、当時は津波による大きな災害がしばらく発生していない時代で、さらに日本海側では大きな津波は発生しないという俗説も強く、これらの意識が津波による被害を大きくした要因のひとつであったと想定されます。
被害と状況
- 地震全体の死者は104名ですが、このうち100名が津波による被害でした。
- 特に被害が大きかったのは、震源に最も近かった秋田県能代市、能代港で護岸工事に当たっていた作業員の方々が35名も津波で命を落とす大惨事となり、現在能代港にはこの殉職者慰霊碑が設置されています。
- さらに秋田県男鹿市の海岸では、小学校の遠足で子ども達が海岸にいましたが、津波に対する避難を行うことができず、無防備な状態で津波の直撃を受けそのまま沖合に飲まれました。漁船などに救助された子どももいましたが、13名の児童が命を落とす惨事となっており、やはり小学校には慰霊碑が設置されています。
- その他は、海釣りをしていたと思われる方々が各地で合計18名、海で漁業などに従事されていた方も各地で合計18名と、死亡者の大部分は海岸で津波の直撃を受けた方々となります。
- 昨日のお話でご紹介したチリ津波地震でも、情報伝達の限界により津波の不意打ちを受け多くの方が犠牲となったというお話をしましたが、日本海中部地震においても、現代と同じような津波観測網があり、これをJアラート連動の防災行政無線や、スマートフォンなどでキャッチすることができる体制が整っていれば、死者はほとんど無くすことができたのではないかと想定されます。
- 大地震という自然現象を無くすことはできませんが、これを震災にしないための技術は確実に進歩しています。しかし高度な情報技術も使われなければ意味がありません。お出かけの際にはスマホをポケットへ入れ、地震・津波の情報を確実にキャッチできるようにしておきましょう。これは本当に大切なことです。
本日も、ご安全に!
ということで、本日は「チリ地震」のお話でございました。
それでは皆さま、本日も引き続き、ご安全に!