備える.jp
サイトメニュー仕事依頼・お問合せ

Voicyそなえるらじお #852 死者1.5万人…最悪の火山&津波災害「島原大変肥後迷惑」

最終更新日:

執筆者:高荷智也

Voicyそなえるらじお #852 死者1.5万人…最悪の火山&津波災害「島原大変肥後迷惑」

おはようございます!備え・防災アドバイザー高荷智也がお送りする「死なない防災・そなえるらじお」、5月21日(火)、本日も備えて参りましょう!

日本最大の火山災害

本日のテーマは「島原大変肥後迷惑」のお話です。

火山や津波のお話をする際、よく引き合いに出される災害に「島原大変肥後迷惑」という災害があります。火山と津波により甚大な被害をもたらした災害ですが、本日はこのお話。

島原大変肥後迷惑

ちょうど232年前の本日、1792年5月21日、当時の暦では寛永4年4月1日、現在の長崎県、当時の肥前国(ひぜんのくに)の島原で火山の山体崩壊と、それに伴い大津波が発生し、島原および対岸に当たる熊本県、当時の肥後国(ひごのくに)、あわせて15,000名が命を落とす大災害が発生しました。

山体崩壊を「島原大変」、これによる大津波を「肥後迷惑」、あわせて「島原大変肥後迷惑」と呼ばれています。何やら童謡にうたわれそうな、可愛らしい名前の災害ですが、日本における最悪の火山災害として記録されている、恐ろしい現象です。

「島原大変」で山体崩壊を起こしたのは、長崎県の島原半島中央部にそびえる「雲仙火山」の中でも、有明海に面する最も東側に位置する、眉山です。この眉山が山体崩壊と呼ばれる、山そのものが崩れ落ちる超大規模な地すべりを起こし、周辺を埋め尽くしながら一気に有明海へ流れ込みました。崩壊した土砂の量は3億立方メートルを超え、これはよく言われる「東京ドーム換算」で、約250パイ分というすさまじい量になります。

この土砂が周辺を埋め尽くしながら有明海になだれ込んだことで、大津波が発生しました。山体崩壊を起こした眉山の対岸、現在の熊本市を中心とする肥後国には、山体崩壊発生から約20分後に高さ5メートルを超える津波が押し寄せました。場所により15メートルから20メートルの高さまで津波が駆け上がったことが分かっています。

さらにこの津波は、熊本側で反射して山体崩壊を起こした眉山・島原半島側にも押し寄せました。反射して戻って来た津波はさらに高さを増し、島原半島から天草周辺の村々を飲み込み、最大では50メートルを超える場所まで駆け上がったという記録が残っているそうです。

山体崩壊による生き埋めと、大津波による甚大な影響で、長崎・島原側で1万人、熊本・肥後側で5千人、あわせて1万5千名以上の方が犠牲となる、日本における最悪の火山災害となりました。ちなみに当時の肥後の人口は約49万人と以上で、100名に1名が命を落とす大災害だったということが分かります。

これが、島原大変肥後迷惑による被害の状況です。

経緯

雲仙火山では、山体崩壊が生じる半年ほど前から、大きな地震が発生していました。この地震は徐々に東側、崩れた眉山方向へ移動していったということですが、山体崩壊の約4ヵ月前には噴火も始まっています。

江戸の幕府にも噴火開始が報告されていますが、この時点では大規模な災害を予測する人は少なく、逆に噴火している火山の周りに出店などが出され、溶岩見物客でずいぶん賑わったという記録が残っているそうです。

山体崩壊の3週間ほど前には、島原城下から人々が避難を始めましたが、地震などが小康状態となり多くの方が街に戻ってしまいました。この時期、眉山でも大規模な地すべりが発生し、これは山体崩壊の前兆と言える状態でしたが、街から少し離れた場所であったため特に避難の指示などは出されなかったそうです。

読売新聞の特集記事を見ますと、この眉山の地すべりを受けて、危険と避難を訴える僧侶などがいたそうですが、逆にデマを飛ばしたということで取り締まりを受けたそうです。しかし、デマと思いきや事実だった、という情報を見極めることは難しく、現代に残る教訓ではありますが、なかなか扱いの難しい出来事だったと言えます。

そして1792年5月21日、マグニチュード6.4程度と想定される大きな地震が2度発生し、一連の地震や噴火でもろくなっていた眉山が真っ二つに裂け、大規模な山体崩壊に発展しました。

この時、一連の噴火などを対岸から見ていた熊本側でも、大規模な噴火が発生したら船を出して救助に行くような準備を進めていたそうですが、まさか大津波に自分たちが飲み込まれるとは想像もできず、大きな被害につながりました。有明海沿岸のほぼ全ての村が津波にのまれ、で死者1万5千名となる「島原大変肥後迷惑」に発展してしまったのです。

この時に運が悪かったのが、ちょうど山体崩壊が発生した日は、月が新月で大潮を迎えるタイミング、しかも津波が生じたのは夜8時、有明海がほぼ満潮時刻だったということで、最悪のタイミングで最悪の災害が発生したことは大きな不運だったと言えます。しかも江戸時代、ろくな照明器具もありません、月明かり程度しか照明のない時代で、その月明かりがない新月の夜の大災害、直後の救助なども難航したことが伺えます。

現代への教訓

この災害の後、犠牲者の追悼や記録の継承、また津波の到達地点を示すための石碑が多く作られました。その中のひとつ、現在熊本市西区にある石碑には、このような文章が刻まれています。

津波が来た時は欲を捨てて何も持ち出そうと考えず、老人を助け、子どもを連れて直ちに逃げよ。かねてより逃げ道を確かめておき、いざという時に迷わないように。みなこれらのことを覚悟して子孫に伝え、戒めよ

津波は地震以外でも生じる。逃げろと言われたら全てを捨てて逃げる。これは現代でも全く同じことが言える教訓であり、しかも対処方法は江戸時代も現在も代わりがありません。夏、海辺でのレジャーシーズンにもなりますが、津波避難をぜひ頭の片隅に入れて楽しんでください。

本日も、ご安全に!

本日は「島原大変肥後迷惑」のお話でした。

それでは皆さま、引き続き、ご安全に!

サイト管理者・執筆専門家

高荷智也(たかにともや)
  • ソナエルワークス代表
  • 高荷智也TAKANI Tomoya
  • 備え・防災アドバイザー
    BCP策定アドバイザー

新着のブログ記事

ブログカテゴリ

備える.jp 新着記事